湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

二人を超えてゆけ―デルカダール・ローマ

 本稿では、この間の紋章の記事で先送りした、ドラクエ11の大国「デルカダール王国」の紋章・国章「双頭の鷲」のシンボルとしての意味を考察していきます。

 この間の紋章の記事です↓

homeshika.hatenablog.jp

 ドラクエ11の世界「ロトゼタシア」に存在する国や町村にはおおむねモデルとなる現実の国があるようで、こまかいところもよく作ってあります。ドラクエ3は位置と名前が現実の国々をモデルとしていましたが、今回は国の中身ですね。

(アラブの国をモデルとしているサマディーはアラブと同じに強い名馬の産地であったり、風車の情景が美しいバンデルフォンはオランダでオランダ人男性はグレイグおじさんがそんなに珍しくないほど高身長だったり)

(このへんのモデルのこともまた別記事で話しますね)

 そういった作り込まれた国々の中でも特に、デルカダール王国は魔王が潜伏してたわ、最初呂布みたいにスゲーこわい敵だった将軍が隠し仲間キャラになるわ、国章がキャラ紋章と並んでピンバッジになるわで、特別な国として扱われています。

 ここではそのデルカダールと国章に表されたモチーフを、モデル含めて確認していきますね。

 

 

超えるべきもの

 勇者の運命を知らされた主人公が最初に目指す国、世界一の大国だということで、旧来のドラクエ常識でいう「最初の、支援してくれる王様のいる王国」イメージの盛大なパロディになっていることは明らかです。

f:id:marimouper:20190704235246p:plain

 そしてこの国章は、「ロトの紋章」を確かに原型としつつもかなりカタチを変えて「釣り針型」になった勇者のアザよりもよほどわかりやすくロトの「鳥紋」に近いカタチに見え、そこらへんも踏襲しています。しかし、デルカダールは序盤から事実上「敵国」になる。よってゲームのプレイ感覚としてはこの紋章は、「強くカッコよく古きよき、しかし乗り超えるべき象徴」として表示されることになります。

  この間グレイグおじさんの私服の色のアレさについて話しましたが、

homeshika.hatenablog.jp

実はグレイグおじさんの服のカラーリングも、色が鮮やかであればドラクエ3の初代ロトの勇者の服に似ており、しかし、着ている人間がややおじさんであることとそのくたびれぎみな色で「かつて勇者だったもの(を超えてゆけ)」の感を見ることもできます。

 ドラクエ11は「金の鳥紋のデルカダール」――これまでのドラクエ、今までのこの世界の、何を超えていこうというのか?

 

欧米諸国家における「双頭の鷲」

 「双頭の鷲」のモチーフの中身的な意味について語る前に、その歴史的な意味について確認をしておきましょう。まあ現実の歴史背景はええわという方はとばしてもオッケー。

 前にツイッターで見たのですが、ドラクエ11は欧米諸国に対してもローカライズされてリリースされており、「双頭の鷲」は欧米の諸国においてだいたい「自分の国」か「対立した歴史のある国」かの紋章であることが多く、どちらにせよ思い入れやすいモチーフになっているね……て。これは事実です。

でも、なんでそういうことになってるのか?

globe.asahi.com

 

鷲か、獅子か、それ以外

 キャラ紋章の記事でも述べたのですが、中世に騎士が紋章をもつようになって、有力な家が紋章に描くたべっこどうぶつモチーフとしては「鷲」と「獅子」が人気でした。これはもともとは鷲と獅子がそれぞれ鳥の王、獣の王とされていたからです。

なのですが、しだいにそれは「鷲=皇帝の支持者」「獅子=皇帝に対立する勢力」という意味合いをおびることになっていきます。そのへんの歴史をふまえていていいね!となったファイアーエムブレム風花雪月が発売してかなり好評のようですね。さすがは歴史のコーエーテクモが制作協力しているだけはあるのです。

 特に「獅子」つまりライオンの中世の紋章に占める割合はすごくて、確認されている者のじつに15パーセント以上にのぼるみたいです(ミシェル・パストゥロー著『紋章の歴史』より)。ン?じゃあなんで鷲の紋章がこんなに広まっているかんじがするのでしょうか? あと「皇帝」ってどこの皇帝のことなんでしょうか?

 

意匠の来歴

 そもそも「ただワシを描く」のではない、現実世界にも広まっているデルカダールの紋章のような「体は正面を向いて翼を広げた状態の、頭がふたつあって左右を向いている鷲」という特定の意匠はどっから来ているのでしょうか。

 実はこのモチーフの歴史はメッチャ古く、ティグリス・ユーフラテス文明のヒッタイト(『天は赤い河のほとり』のアレ)とかにそのおおもとがあります。つまり西欧文化からするとぜんぜん「東方」のモチーフだったわけだ……。「ふつうの鷲」がもともとローマ帝国の国章であり、「双頭の鷲」が大きく使われ出したのは「ビザンティン帝国」すなわち「東ローマ帝国」の、それもだいぶ末期のことです。

 その後、双頭の鷲のモチーフはなんやかんやで「ローマ帝国の後継者」を主張するものとして使われていきます。実は双頭鷲は紋章の動物モチーフの中でほとんど唯一ふたつ頭で描かれる動物であり、そこには特異な意味があります。すなわち、「ちゃんとした古代ローマ帝国」の支配が崩れてローマが「西ローマ」「東ローマ」に分裂することになり、西ローマが早々に壊れちゃったという歴史をふまえた、「東西ローマ両方の正統後継者」ということを左右を向いたふたつの頭で表せる紋章ってわけだったのです。

 そうして、「東西ローマ両方」つまり「オレこそがあの古代ローマ帝国の正統後継者だぜ!」というのは、中世の諸侯がフワッフワッと主張しては盛衰していくような状況を経て、しだいに特定の「国」や「家門」に定まってきます(この時代の「国家」観は現代とはだいぶ違って「契約関係にある諸侯連合体の支配力の及ぶ範囲」みたいな感じなのですが…)。それが「神聖ローマ帝国」です。

図説 神聖ローマ帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)

図説 神聖ローマ帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)

 

 (東ローマ帝国に関しては、先述のニュース解説記事のセルビア、アルバニア、そしてロシアなども後継を主張しそれぞれに双頭鷲紋を使いました)

 

「神聖ローマんち」

 こうやって書くと『ヘタリア』を読んでいるかたにはイメージしていただけると思います。知らない方はちょっとめんどくさい話になるのでこの段はそこそこに読み飛ばしたらいいよ。

『ヘタリア』では「神聖ローマ」は「幼いドイツ」であることを思わせるゲルマン顔をしており、「ほんもののローマじいちゃんの孫」であるイタリア・ヴェネチアーノちゃんに「神聖ローマになれ~!」って言います。つまりこのときローマの後継者を名乗っている者たちはもとのローマ・ラテンでなくゲルマンとかの土地や民でした。それがローマと神の名のもとに、理論上世界のすべてを統合した帝国をたてようとしてたわけです。

実際のルードルフに、「ドイツ」を意識した言動は少なかった。マルヒフェルトでオタカル(引用者注:チェコ王にして当時オーストリアを領有。ハプスブルク伯ルードルフ四世と国王の座を争う)軍があげた鬨の声が「プラハ、プラハ!」であったのに対し、ルードルフ軍のそれは「ローマ、ローマ、キリスト、キリスト!」だった。ルードルフはまた「ローマ王」という称号を一貫して用い、「ドイツ王」と称することはなかった。

岩崎周一 著『ハプスブルク帝国』

 具体的に何をしてたかっちゅうと、ローマ教皇によって戴冠される(キリスト教世界の帝王であることの承認を受ける)ことや戦争による周辺領地の併合もありますが、結婚をしました。また『ヘタリア』を思い出せる方は思い出してもらうと、「神聖ローマんち」では「神聖ローマんちなのにオーストリアさんが家長顔していた」のを覚えていますか? あれは現在も彼(オーストリア)を「高貴な血筋」イメージたらしめる「ハプスブルク家」を意味しています。マリー・アントワネットの母にしてオーストリア女帝マリア・テレジアのおうちですね。

 ハプスブルク家≒オーストリアさんの王家は、現在の「国家」の概念ができる前の「家門」がそれぞれに領地を支配したりとったりとられたりしていたヨーロッパ世界における「ヨーロッパの王家」ともいえるほどの勢力をもつにいたり、神聖ローマ帝国はじっさい「ハプスブルク帝国」「ハプスブルク君主国」とニアリーイコールで考えられています。このハプスブルク家の紋章こそが「双頭の鷲」なのです。

ハプスブルク帝国1809~1918―オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史

ハプスブルク帝国1809~1918―オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史

 

 『ヘタリア』のキャラ紹介でもオーストリアさんは「結婚で活路を見出した」とあります。ハプスブルク家は周辺の味方にしたい勢力とさかんに同盟――つまり、王家の子を結婚させる――をおこない、その結婚相手の家門に「双頭の鷲」の紋章を使っていいよって言ったのです。ハプスブルク家の結婚相手はつまり周辺小国の王家や領主家であるわけで、ハプスブルク派の国の君主の紋章として双頭の鷲はどんどん広まったというわけです。それが、現代の「国の紋章」にまでつながってきます。

 そういう歴史をふまえ、西欧において双頭の鷲はパッと見からそういう、歴史ある正統で強い支配者の紋章、帝国の紋章なのですね。

 

デルカンとダール

 前段で、「双頭の鷲」とは現実世界では「古代ローマ帝国および東西ローマ両方の正統後継者とその親戚・同盟勢力」を表す意匠であると述べました。服の色の記事でもモーゼフ=デルカダール三世の衣の「紫・赤・白」はローマ皇帝およびローマ帝国高位貴族に用いられた色であると言いましたが、デルカダールはこの「古代ローマ」「神聖ローマ」のイメージをミックスさせたものであると考えられます。

 「ローマなるもの」は今回の話題である「双頭の鷲の紋章」と同じように、ヨーロッパ諸国ならばなにかしらルーツに関係してくるメチャクチャ重要な歴史です。古代ローマ帝国五賢帝の時代は18世紀の歴史家(エドワード・ギボン)さえ「人類の最も幸福な時代」と呼んだことが有名です。しかもすごいことには、その憧れの源泉である古代ローマ帝国の文化は(血統としては関係ないのに)実はかなり日本の文化とも似通っているのです。

『ヘタリア』でもローマじいちゃんに憧れてイタリアを我が物にせんとするヨーロッパの国々が多い中、生魚に醤油をつけて食べるなど文化的に古代ローマを継承しているのは日本なのでは……?というエピソードがありました。映画化もした『テルマエ・ロマエ』でも古代ローマの際立ったテルマエ(浴場)好きと日本の風呂文化のコラボレーション、多神教や娯楽などの共通点が描かれていましたね(ちなみにテルマエ・ロマエのルシウスの時代こそがさっきの「人類の最も幸福な時代」五賢帝のひとりハドリアヌスの治世です)。

テルマエ・ロマエ

テルマエ・ロマエ

 

なので、ドラクエ11のメイン国であるデルカダールがローマモチーフであることは、欧米、日本、全方位に意義深い現代のスクエニならでは的なことなのですな~と感心しているのでした。ドラクエ3でアリアハンを出て最初に着く国も「ロマリア」ですしね。

 

「ローマ」とデルカダール

 現実の「ローマ的なるもの」とデルカダールとのあいだの共通点と逆に差異、それと紋章を見比べたときに見えてくる作品上の意味について見ていきましょう。

 

 まずは「これはローマだぜ!」とみられる似ている特徴からみていきます。

丘がちな高地である

 「七つの丘(セプテム)」と呼ばれる古代ローマ最初の都市地帯と同じく、デルカダール地方は丘丘しい高地に位置しています。デルカダール地方に川や山はたくさんありますが、このような高地に水をひくのは簡単ではなく、後述のデルカンとダール兄弟の「治水」というキーワードがきわめて重要になってきます。古代ローマ帝国の治水技術は現在から見ても驚くべきものです。

地中海のようなものがある

 古代ローマからの歴史文化をみるうえで地中海貿易ははずせません。ゲームシナリオでそこは重要じゃないので貿易のようすはダーハルーネくらいしか描写されませんが、デルカダールは港町ソルティコ(町並みや人物名はスペイン・アンダルシア地方のように見える)や内海を影響圏においています。

ホメロスおじさんの好物「フルーツサンド」は現代でこそセブンとかでも298円で売ってますが、クール輸送ができる前にはたいへんな財力と周辺領地の豊かさ、政治力をふくめた貿易の力の粋を集めた究極のぜいたく品でした(フルーツサンドという文化は日本のものなので実際の西洋だとフルーツケーキになるけど)。

城壁との位置関係と居住区の身分差

 城壁からもっとも奥の王城と貴族居住区、平民の暮らす区域、外堀にできた下層スラム、城壁に据え付けられた粗末な住居…といった特徴は神聖ローマ時代の都市に特徴的で、いまも残ってるところもあります。 

以下の記事もどうぞ。

 城壁に据え付けられた貧しい木骨造りの家々を見て、
あれっ?と思った。

 この城壁にくっついた家は、神聖ローマ帝国時代のドイツで
農奴身分の人達が住んでた家では?

農奴というのは、聖職者・貴族より下の第三身分、
平民に属する小作農民の人達で、扱いは平民の中でも最も下、
帝国議会である三部会にも呼ばれません。

中世ヨーロッパで城壁と言えば、
都市である事を認められた土地にしかなく、
近隣の農村には存在しないものです。

すなわち都市と農村を峻別するものであって、
いざ戦争になれば真っ先に壊されるものですから、
聖職者や貴族ほど城壁から離れた場所に、
平民ほど城壁の近くに家を建てました。

家を建てる土地を奪われた農奴身分の人達は、
城壁に家を据え付けるしかなくなり、
人口の多いドイツの議会都市・ニュルンベルクなどを中心に、
こうした家がぽこぽこ生まれていったという訳です。

 

【考察】ドラゴンクエスト11 双頭の鷲が示すデルカダール王国の謎 : 記号論研究所 マンガ・アニメ・ゲーム考察

 兄弟によって開かれた

 ここが最もはっきりしてるところなのですが、デルカダールの都の民家の本で読めるデルカダールのおこりは、「デルカンとダールという兄弟がやってきて、同じく土地をもたない者達と協力して高地の治水をおこない、人が住まう国を建てた」というものだというのです。これが古代ローマの建国神話と酷似しています。このへんについてはまたあとで詳しく。

男社会である

 まあそういうわけで古代ローマの最初期は土木工事する男ども、周辺地域と戦争する男どもで構成されたので日本でいう江戸みたいな感じで女性不足から始まり、それゆえに社会が「戦士の共同体」として特化していてマッチョな男社会、男女の役割分担がハッキリしていました。ここんとこは王城兵が目立ち、さらにその王城兵の中で女戦士が一人くらいしか見当たらないデルカダールのカタさムサさに共通して見えます。

 

 一方、古代ローマ、東西ローマ、神聖ローマと違うなとみられるところ

歴史が途切れてない

 現実の「ローマ」は支配領域のあまりの拡大による分割統治や、ゲルマン民族大移動の影響などによって国家としての支配体制がプッツンしちゃって、それ以降はひとつのローマだよ!って言ってるだけ状態になっているのですが、デルカダールはそういう煩雑なことはないみたいです。ロトゼタシアの中ではユグノアなど他にも大国があり、古代ローマほどのバカでかい支配領域にはならなかったのが幸いしたのでしょう。

信心深くない

 現実のローマはヴァチカン・ローマ教皇を奉じていることからもわかるようにキリスト教世界の代表・神聖国として、神聖ローマを名乗っていました。だから上の都市の構造で紹介した発売前の記事では「主人公を『悪魔の子』と言って追うデルカダールはこの世界での神聖国なのでは?」という予想がたてられていたのですが、ゲームをプレイしてみるとデルカダールは「信仰」っぽくない国だという要素がちょいちょい出てきます。もちろんロトゼタシアの信仰はキリスト教ではなく、日本人にも理解しやすい自然神・循環の神である大樹信仰が文化の違う全土にわたっているのですが。

 ローマと違って城下町の教会はさほど大きくなく、上層ではなく庶民の広場に面した中層にあることから、デルカダールがそんなに教会に高い地位を与えようとはしてないことがわかります。また、「私は神とかあんま信じないんですけど……」みたいな前置きで話してくる兵士が複数いたり、『Pash!』およびキャラクターブックでのホメロスのインタビューで「デルカダールには回復呪文を使える人間が少ない」と言われていたりで、あまり「神に祈るハート」の文化じゃないことが示されています。

 古代ローマはキリスト教を国教とするまでにも、先述の日本的な多神教の神々が生活に密着していたので、これはけっこう意図的な違いだな~とみえます。しかし、代わりにこのような歌があります。

いま ひびく よろこびの歌

朝が来た 朝が来た

我らを照らす 明日への光

大鷲が天に舞い我らをたたえる

山河の水は清く澄み我らを癒すだろう

歌えデルカダールの民よ

強き心の太陽の民よ

歌え歌えよろこびの歌を

 最後の砦でデルカダールの紋と勇者の紋を手作りの旗にして主人公とグレイグの凱旋を祝福してくれるデルカダールの人々の歌う歌です。

ここに「神」も「大樹」もありません。「朝の光」と「水」に対する感謝があるだけです。

そしてきわめつけは、その「朝の光」をもたらす太陽のことを「デルカダールの民よ 強き心の太陽の民よ」と、デルカダール人自体が太陽であるというふうに歌うのです。

 デルカダールの人間が「信心深くない」ことが描写されているのは、高地への困難な治水によって国を拓いた、運命を神ならぬ自らの力で切り開いた人間たちの末裔であるというマンパワーへの誇りが本来の性質として設定されているのでは?とふんでいます。 

 実はもうひとつ…大きな違いがあるのですが、それには次の段落をもうけます。

 

ロムルスとレムス

 歴史と信仰心のほかに、おそらく最も見えやすく、明らかに示されているローマとの違いはその「国名」にあります。いやフィクションの固有名詞なんだから違うのは当たり前やろとかそういう話ではなく。

 ローマという地名・国名の由来は、諸説あるのですが、もっともよく知られているものはこうです。

先程「似ている点」に挙げた「兄弟によってひらかれた国である」という古代ローマの建国神話のふたりの兄弟を、ロムルスとレムスといいます。軍神マルスの血をひきながらも捨てられ狼に育てられたふたりはそれはそれはりっぱな若者になり、自分たちが捨てられた、何もなかったセプテムの地に自分たちの都市国家を建てよう!と計画します。どっちがその王となるかでなんやかんやモメた結果、争いに勝った兄は弟を乱闘の中でうっかり殺してしまいます。こうして兄ロムルス(ロームス)は高地に治水してすばらしい都市国家を建て、多くの人がそこに住み、そこは建国王の名からつけたローマと呼ばれるようになったのです。……

 つまり、ロムルスとレムスデルカンとダール「本来住むべき国を追われ、新しい地に協力して国を建てようとした兄弟」というところは同じなのに、

片方が王になり国名に名が残ったローマに対し、デルカダール両方の名が残されているということなのです。

 デルカンとダールが、周りの土地のないものたちを集めて治水し都市をつくりリーダーに戴かれ、……その後、どうなったのか――つまり、「どちらが」王になったのか、争いがあったのか――は、どこにも示されていません。

 どちらが……、どちらか、が、王にならなければならないのでしょうか?

 それは、絶対なのでしょうか?…

 

ふたつの王冠

 ここまで差異をみてくると、デルカダールの双頭鷲がなぜ双頭なのかの意味は、現実世界と異なっているのだということがわかってきます。

f:id:marimouper:20190704232326p:plain

 相変わらず緑のなんじゃこれは…はわかんないのですが(誰か教えてくれ)、この双頭鷲は、両方がそれぞれに冠を戴いています

 

つまり、デルカンとダールは現実のローマと違って、どちらかが勝者、どちらかが敗者とはならなかったのではないか?

いやいや、王が二人なんて、そんなの…………

f:id:marimouper:20190803000652j:plain

 ひとつの体にふたつの頭、ふたつの王冠。ありえざる鳥の王はそういった想像の余地をなげかけてきます。

「ふたりともが王」だなんて、どういうことなのか? そんなことはありえるのか?

あるとしたら、それはどんな世界なのか?

どうしたら、その理想にたどり着けるのか?

 

 

「2」の力、そして限界

 ドラクエ11では序盤から印象的な二者関係がバンバン示されます。カミュと僕! なんか白と黒のおじさんたち! ルパスと娘ちゃん! ベロニカとセーニャ! シルビアさんとファーリス! ラッドくんとヤヒムくん! キナイとロミア! カミュと妹! あとなんか……いろいろ!

 ドラクエ11の大テーマは「人を『星』だと思ってしまう断絶と弊害」みたいな話だと当方はしているのですが、勇者の星が人々の希望でもあったように悪いことばっかりではなく、人は自分ではない他者を光と仰ぐことで上を向いて歩いていけるというのはすごくよいこととして繰り返し描かれています。だから一筋縄ではいかないテーマなのです。

親と子は、親が子を世話し助けているようですが、子がいるから親は救われることもあるし、よりよく生きていこうという気持ちにもなれる……ということがルパス親子で描かれていました。これは親子関係にとどまりません。セーニャはベロニカに憧れいつもうしろをついて歩き、ベロニカはセーニャの前に立って歩かねばと思うことでその気高い心を奮い立たせています。カミュと妹はつらくいいことのない生活の中でも、お互いを思い合うから心健やかでいられ、未来を夢みることもできました。

きっとセーニャには実際よりずっとベロニカが大きく強くすごいものに見えていたでしょうし、カミュは妹に自分の人生には望まないような幸せを望むことができます。他者だって自分と同じように心をもち限界をもったひとつの命なのですが、他者に夢やあこがれや背中、「この人のためなら」「この人ならきっと」を託すことで、人は心救われることができるのです。

それは「他者」が「自分ではない」全然違うものだからできる、すばらしいことです。自分と並ぶ他者を負かして自分ひとりの正しさが残るのでは得られない、幸せと無限の可能性がそこにはあります。「異質な他者との出会い」は天空シリーズで繰り返し強調されてきたことです。

homeshika.hatenablog.jp

生きていくだけなら、空気と、水と、太陽と、最低限のものがあればいい。でも、ロミアにはキナイとの約束が必要です。

私たちの心が生きていくには、他者というあこがれの光が必要です。

 

矛盾

 かつて、デルカダールでは、とある他者どうしの、あこがれの光となる約束が結ばれました。

f:id:marimouper:20190602191647j:plain

 双頭の鷲の黄金のペンダントに誓われたその思いは、ふたりの胸でずっと大事にされ、ふたりはその黄金の双頭鷲を見て触れてはその光を胸によみがえらせ、その力によってお互いを高めてくることができました。

一人ではなく二人だったからです。二人だということには、それだけの力があります。

 しかしグレイグ少年のせりふには単純な言葉の誤りがありました。

 

「なぁ ホメロス。おまえの知恵と 俺のチカラ。

 ふたつが合わされば 王国一の騎士になれるぞ」

 

 王国一、というのは、デルカダールの盾を賜るのは、一人だ。

 1+1=2という足し算もできないのかおまえは。

 

 デルカンとダールは、どちらが王になったのでしょうか? それとも、どちらでもなかったのでしょうか? その顛末を名門貴族の神童ホメロス少年ならば知っていたのでしょうか?

デルカンとダール兄弟はこの矛盾に耐えられたのでしょうか? どうやって?

 

太極図

 相反する・同じくらいチカラをもとうとする強いふたりは、ロムルスとレムスのようにいつか滅ぼし合い、どちらかが勝ちどちらかが負け片方にならなくてはならないのでしょうか? 『ペルソナ3』にはそのシナリオの中でのデルカダール国的存在・「桐条家」の家訓として地味にこんな言葉があります。

「調和する二つは完全なる一つに勝る」

 また、ペルソナシリーズのもとになっているユング心理学では、ふたつの価値観の対立について特徴的な考え方をしています。

現代のあらゆる創作のベースに無意識にでも取り入れられている構造なので確認しておきますね。

 

 まず、人間の心には規範や善だと思うことからできた「意識」…いうなれば光のあたるよく見えている部分があり、普段はそれを自分だと規定することで安定して暮らしています。しかし、その自分の定義は「こんなものは自分ではない」と否定したたくさんのものによって成り立っており、自分でいるために選ばなかったその心の中の闇の部分は「無意識」と呼ばれます。

人間は成長するにつれて、何度も「自分とはこういうものだ」という「意識」の定義を揺るがせます。たとえばハイハイをしている今の自分と、なんかたまに二本足で立って歩いている自分が出会い、新しい視界や手の触るものの感覚に戸惑いますが、やがてどちらも自分であるという統合をはたします。

このように心の成長とは「規範を知ること」や「悪心に打ち勝つこと」ではなく、「自分の意識の限界(無意識)と直面して葛藤し、相反するそのふたつをどちらも自分だと統合し、心を『拡げる』こと」でおこるというのがユング心理学の価値観の対立の考え方です。これを「個性化の過程」といいます。

(生きて変化する限りこの「個性化」には終わりがないため「過程」といわれる)

 

 相反するふたつが、相反するままで「統合」されるとはどういうことなのでしょうか?

黒いものが、白い光に包まれて白くなることでしょうか?

それとも色が混じり、灰色になることでしょうか?

 そのどちらでもありません。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg

 この図を見てください。有名ですね。道教の「陰陽魚太極図」です。

この図の勾玉型、「魚」と名付けられているコレは魂をあらわし、下降する黒が陰の魂、上昇する白が陽の魂です。陰は陽を、陽は陰をたえず追いかけて塗りつぶそうとしているようにも見えますが、陰の中には必ず陽があり、陽の中にも必ず陰があるのが見え、相反するそれぞれの性質を保ったまま調和しています。

f:id:marimouper:20190804222627j:plain

『少女革命ウテナ』はこのユング心理学を意識的に引用して表現していました。相反する、滅ぼし合うような白と黒の二者が、友情でつながりあい、どちらをどちらにも従属させず、統合する彼女たちの眠るベッドは陰陽魚のかたちをしています。

 

 また、哲学の古くからある論理の方法のひとつに「弁証法」というものがあります。定義は多岐にわたるのですが、主に用いられているものは「AはAである」という最初の命題(テーゼ)に、「AはAではない」という矛盾する命題(アンチテーゼ)をぶつけ、葛藤を経てそれらを本質的に統合したあらたな命題(ジンテーゼ)をたてることをめざすものです。さっきのユングの「個性化の過程」と似ていますね。

 すべてのテーゼは必然的に対立者であるアンチテーゼを生み出してしまいます。テーゼとアンチテーゼとは対等な関係で、対立しているがゆえに、分かちがたく結びついています。テーゼとアンチテーゼがそれぞれ保存されたままでひとつの力になる一連のことを、「アウフヘーベン」といいます。ドイツ語で「高める」の意味です。

youtu.be

ペルソナ5の「やっぱりアンチテーゼがないとアウフヘーベンは生まれないからね」さんです。 

 

 こういうような「正しいとされること」「反すること(限界)」「それらを乗りこえた統合」という構造は、現代の多くの物語作品の中で反復されているのですね。これはこの過程をぐるぐるくり返すことによって、テーマをじわじわ大きく、高くしていける考え方です。しかし、葛藤があるので、たいへんです。

たいてい、人はその葛藤を面倒がって成長を止めたり、いつかその終わりのない葛藤に折れてしまって片方を殺してしまったりするわけです。ふたつがふたつのままでいることはすばらしいことだけれど、たいへんなストレスでもあります。正反対の性質の二者関係がフィクションの中で魅力的で人気を集めるのも、この現実では困難なぶつかり合い・高め合いへの憧れがあるのです。

 『少女革命ウテナ』のモチーフとなった、ユングに影響を受けたヘルマン・ヘッセの『デミアン』では、こういった対立と葛藤を越えた魂の上昇のことを「鳥は神に向かって飛ぶ」と書いています。ロトの紋章のチャージのかたちですね。

 ロムルスとレムスのように相反する強者どうしの対立と葛藤にさらされながらも、デルカンとダールのように友愛と絆でその痛みに耐える二者は、二者のままで高め合うことができます。鷲は双頭の奇形でも高く飛ぶことができます。

 しかし……。

 

フルール・ド・リス

  「相反するふたつの力がひとつに協働できる」可能性とすごさはわかったのですが、そういう「二者の統合関係」であるデルカダールの紋章が、白と黒のおじさんたちの今までが、「乗り越えていくべきもの」として表現されているらしいのはどういうことなのでしょうか?

f:id:marimouper:20190805074335j:plain

 デルカダール神殿の双頭鷲神像をもう一度見てください。今度は正面。

んんん?

なんか三つ持ち物がありません?

二つじゃないのかよ!?

 

 まずふたつ持ち物がクロスしているのは問題ありません。斧とトーチ(聖火)の意匠ですね。ふつうに見て、斧はチカラを、トーチは人間らしい知恵をあらわします。グレイグおじさんとホメロスおじさんが並び立つことは正しいのです。

でも、それの前にドン!て鷲が剣を握っている。

 

f:id:marimouper:20190705000057j:plain

 デルカダール神殿といえばパパがグレイグとシルビアさんに試練を授けてくれるところですが、パパの服に描かれたソルティコ領主家の紋章を見てください。「白地に赤い双頭鷲と百合」です。

 この百合(フルール・ド・リス)は花びら3枚が剣のかたちをしており、騎士の武勇をさすとともに、「三位一体」(キリスト教の父と子と聖霊だけでなく、いろんなものの三位一体)をあらわすモチーフでもあります。

「3」という数字のもつ力についてはやはり紋章の記事のシルビアさんの項でも『さらざんまい』とかも引用してお話ししましたが、どこまでいっても向かい合い葛藤しあうしかない二者関係を乱し、それゆえに無限の「社会」とつながる三者関係をあらわしています。過ぎ去りし時を求めたあとの世界では、もうホメロスは物理的にはいないのですが、「ホメロスとグレイグ」のデルカダール騎士の並立にくだんの試練でシルビアさんが加わることで彼らのスキルパネルは解放・統合されました。シルビアさんというキャラクターは「3」の魅力をあらわしているので、これは「グレイグとシルビア」というペアが新しくできることで、上書きされたのではなく「ホメロスとグレイグとシルビア」の三者関係が完成したのだともみられます。アウフヘーベンです。

 

 「ホメロスおじさんが生きてる間にシルビアさんが(家出しないでソルティコ領主家の跡継ぎとしてデルカダールに関わるなどして)なんとかしてくれてたらなあ」と言ってるのではありません。シルビアさんはあの家出で二項対立の世界のカラをやぶりました。

そうではなく、ソルティコ領主家の百合の紋が「3つめ」を表すように、本来、デルカダール(などあらゆる中世の国)には、「白い頭と黒い頭」や「王と平民」といった「2」を乱し無限の「三者」を成立させるチカラをもった存在がたくさんいるはずなのです。

それがジエーゴ卿などの在地有力者による政治単位である、中世における諸身分(シュテンデ)です。以下ちょっと引用が長いです。

国・領邦の統治において、君主と民衆の間にある在地有力者の動向は、きわめて重要な意味を持っていた。諸身分とは、こうした中間的な諸勢力が、(高位)聖職者、貴族、都市といった身分ごとにまとまって構成した政治団体のことである。(中略)

このような存在が出現した背景には、ヨーロッパにおいておおよそ十二世紀以降、統治者による上からの支配に対し、被治者が横に連帯することで対抗したという事情がある。ヨーロッパの封建制における主従関係は、相互に自由な人間同士の契約が基本であり、(中略)中世日本の「御恩と奉公」に類似した双務性・互恵性が特長であった。しかし、実際には君主の立場のほうが強いので、このような相補的関係が常に保たれる保証はない。そこで被治者側は、身分や利害の共通性などを通じて連帯し、統治者に対抗したのであった。

(中略)

スペインのアラゴン王国において諸身分が発した以下の忠誠誓約の文言は、この関連で極めて興味深い。

「陛下と同じほど優れている我ら(あるいは「陛下と同等の権威をもち、陛下に勝る権力をもつ我ら」)は、我々と同じほど優れておられる陛下を、陛下が我々の方と特権のすべてを尊重されるなら、我々の王にして君主として受け入れることを誓います。しかし、もしこれに反する場合は、その限りではありません」。

――岩崎周一 著『ハプスブルク帝国』

 クソ長引用してしまいましたが要するに、中世という時代は「王様とその側近」だけが絶対的にエラいのではなくて、ある種現代的な地方分権と地方-中央協生があり、デルカダールという国は本来それをよしとしていたはずなのに、なんか今は違くなってしまったらしいということなのです。

具体的に言うと「騎士」とか「貴族」とかというものは、本来ジエーゴ卿のような「領主」としてある程度独立した政治経済をいとなんだうえで契約関係として王に協力する存在のはずなのですが(下の記事で中世~近世の王と貴族の関係について書いています)、

homeshika.hatenablog.jp

ゲーム開始時のデルカダールにおいては中央貴族(上層の貴族居住区に住んでいる)の存在が目立ちます。中央貴族とは日本の平安以降の貴族や『ベルサイユのばら』の舞台のヨーロッパ貴族のような、騎士としてのチカラを放棄し宮廷生活と王の取り巻き・官僚としての権力闘争を生きる貴族です。

ゲーム開始時のデルカダールにおいてはジエーゴ卿は昔かたぎの古いタイプの貴族であり、中央に意見しうるチカラをもった地方政治単位などもはやダサく、時代は王に追従してお給金をもらい泥臭い戦いは軍人に任せるのがトレンド♡だというわけです。

そのような「選挙はいつも与党に組織票」みたいな主体性のない者たちの国に、「双頭の鷲」を真に完成させる「3」など、もはやあるはずがなかったのです。

 

 

 「ふたつでひとつ」を超えて

f:id:marimouper:20190704232326p:plain

 デルカダールの国章と国のようすが示しているのは「完璧な一者」を超えた「相反しながら調和する二者」の(かつてそこにあった)素晴らしさです。しかしさらにそれを超えてゆけと示されています。

 昔手を離してしまった主人公を守ることだけを思いつめてきたマルティナは、主人公だけでなく仲間たちと出会い「世界を守るあなたを守るのではなく、あなたといっしょに世界を守る」と視野を広げました。カミュと妹は救い合って生きてきましたが、ついにはカミュはその手をとれず、妹の元を去ります。そして主人公と出会い、その後押しを得ることで、あのときつなげなかった妹の手をつかむことができます。自分一人ではどうやっても息子を救うことができなかったヤヤクは、主人公たちに相談することによって息子を取り戻します。

これは主人公に常人ならざる勇者の力があるからではありません。「二人」ではつなげない手を、「三人」なら、助けてくれる社会があるなら、つなぐことができる、丸い輪をつくることができるということです。

f:id:marimouper:20190805102327j:plain

 白と黒の二者関係には信頼と、尊敬と、友愛と、高め合う勇気があります。しかしやはりそれはバチバチ火花が散るような葛藤であり、人間も生きているので、ギリギリバトルはずっとは続かないです。社会というのは、国というのは、そういう二者の葛藤を助け、ガス抜きし、セーフゾーンや二人では見えない第三の選択肢で丸い輪を作れるものでなければなりません。

古代ローマの正式な国号は「元老院ならびにローマ市民」であり、そこには本来的にはリーダーシップをとる貴族だけでない、政治的責任をもったひとりひとりの市民の参画が不可欠とされていました。

マルティナの紋章にはデルカダールを表す双頭鷲の王冠を支えるように5本の槍が描かれており、これはただの一兵卒、ただの市民たちの小さな、しかしひとつひとつの固い意思が集ったローマ軍団(レギオー)のマンパワーを示唆します。

f:id:marimouper:20190705113144p:plain

 ドラクエの世界はいつだって「我々の生きる、この世界」の鏡です。我々は双頭の鷲に「二者」の限界を乗りこえさせられる「三者」たるデルカダール市民であれているのでしょうか? 彼らの輝きと挫折はいつもそれを問いかけてきます。

 

↑おもしろかったら読者になってよ

www.homeshika.work

↑ブログ主のお勉強用の本代を15円から応援できます